今日は、確定申告に行ってきました。
PCを使って自分で入力する列に並んで、入力を始めるとまもなく、三つ隣の席のあたりからちょっと不思議なやり取りが聞こえてきました。
税務署の職員が循環しながら申告者のデータ入力を手伝っているのですが、意志の疎通ができてないようなのです。
耳からの情報だけでしたが、日本語教師の勘で、すぐにミスコミュニケーションで困っているのは20代のアジア系外国人だとわかりました。
外国人が20年以上日本に住んだとしても、音韻的な母語の干渉が全くわからないレベルになるのはレアなケースで、ましてや滞在期間が短い場合は、発音の癖から、母語はすぐにわかります。
彼女は外見からは外国人に見えなかったので、税務の担当者は、ちょっと変わった日本人だと誤解しているようでした。
「職業病」がつい出て、お節介かと思いつつ、説明のお手伝いをしました。
大学で日本人に専門科目の講義をしていると、1クラスに数名、小・中学校から日本で生活を始めた学生が混じっていることがあります。
以前、地域の日本語教室を通じて、アジア地域から来た小学生、中学生にボランティアで、プライベート・レッスンをしていたことがあります。
当時、中学生のTちゃんは、学校で「取り出し授業」を受けていました。
「取り出し授業」とは、海外から来たばかりの子どもに対して、通常のクラス授業とは別の部屋で日本語を集中的に教える授業活動です。
Tちゃんのご両親は、「『取り出し授業』を受けているけれども、進歩が全く見えない」と悩まれて、プラスアルファの授業をご要望でした。
Tちゃんは、日本語は全くの0初級で、平仮名もわからず、日本語の音の渦の中に、いきなり投げ込まれ、習慣の違いなどから、かなり神経質になっていました。
日本語がなかなか上達しないので、友だちもできないと孤独感を募らせていました。
ご両親との面談の後、国語は全ての教科を理解するための土台部分なので、国語を中心に、様子を見て社会も教えることになりました。
中学生にもなると、現代国語の内容はかなり難しくなります。
ちなみに、光村図書の『国語Ⅰ』(中学1年教材)の真中あたりでは、『竹取物語』の『蓬莱の玉の枝』が出てきます。
古典の文章が初めにあって、その後ろに、現代文で解説がありますが、母語話者にとってもかなりの難易度です。
後半に行くと、ヘルマンヘッセの『少年の日の思い出』が出てきます。
長編でなんと13ページもあります。
この作品には深~い思い出があります。
というのは、Tちゃんはこの作品の1ページ目からチンプンカンプンだったのです。
「意味が全然わからない‥」と言って、涙目でした。
なぜなら、彼女はそのときまだ初級文型の後半を私といっしょに学習していたので、わかるはずがないからです。
仕方ないですから、全て中国語に翻訳した対訳版を作って、それを見せながら、やさしい日本語で精読をしていきました。
ちなみに、対訳版作りだけで、1週間以上かかりました。
(最後は、胃が痛くなりました‥トホホ)
紅茶を飲みつつ、談笑しながらの、会話タイプのレッスンからは想像もできないかもしれません‥。
私としては、必死に取り組んだので、燃え尽きた感がありました‥。
小学校や中学校の海外から来た学生への「取り出し授業」は、1週間に多くて2、3時間程度のレッスンです。
学生の母語ができるボランティア日本人を人選すると言われていますが、
その外国語能力にはばらつきがあって、ちょっとかじった程度の教師がついているケースもあるようです。
このような状態ですから、生活上必要な日本語は徐々に習得していっても、アカデミックな学習のための日本語の習得は、補習に時間もお金もかけてあげられ、子どもの教育に関心がある家庭と、そうではない家庭では雲泥の差が出てきてしまいます。
高校までの間に、日本語が本当の意味で母語に限りなく近くなっていればいいのですが、話す、読む、聞くスキルはなんとかなっても、書くスキルは全く向上せず、そのまま大学に入ってくるケースが少なくありません。
大学では、1年次で論文・レポートの書き方を学びますから、語彙、表現、文型など全て話し言葉から書き言葉へシフトします。
話し言葉でさえ、きちんと書けなかった学生に、どうやって書き言葉をきちんと習得させえるのか、これは大きな課題です。
日本語を学ぶことは言語権利の一つですから、小・中での「取り出し授業」をもっと手厚くして、学生の母語で教科科目を教えられるスタッフを積極的に増やしていってほしいと思います。
そうでないと、日本で育って、日本の学校を卒業した学生の日本語力のほうが、留学生として大学に入ってきた学生の日本語力より低い、というようなことが起きてしまいます。
外国語がお得意の方々、小学校、中学校で「取り出し授業」教師の登録をして、小中の学校教育に貢献しましょ!
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年賀状を昨日書き終わりました!
今日は子どもが終了式から帰ってきたら、イルミネーションを見に六本木へ行きます。
私の教えている留学生たちは、なぜか皆六本木に行くらしいので、
気づかれないよう、グラサンと襟の高いコートで行くつもりです‥(笑)
さて、昨日の続き、「伝統的な教授法」と「新しい教授法」についてです。
私は、学生の立場(英語/中国語)にいる時、
授業をカスタマイズできる教師には、肉声で音読をしてもらいます。
理由は、実際の音声はCDのような機械的な音声ではないからです。
編集されたクリアな音ばかり聞いていると、実際の会話での聞き取りの際に対応できません。
PPTは授業演出の小道具になります。
ですが、使用にあたっては、学習「効果」という点からもう一度考えてみてください。
教師はPPTを作ったことで安心してしまい、教授上の工夫を忘れてしまうことも‥。
私は、紙媒体の持つ匂い、質感、手触りが好きです。
教師の手書きの絵カードにはオリジナリティがあり、手さばきのリズミカルな音は心地いいです。
読解教材がハンドアウトなら、下線が引け、ポイントが書き込め、欄外に自分の意見をメモできます。
板書も、適切なタイミングで教師が書くことで、ポイントが記憶に残り、それをノートに書き写すことで、さらに記憶が深まります。
便利なもの、努力しなくて済むものの与えすぎは、「注視する」、「手を動かす」ことで促されるインプットの機会を減らします。
結果的に、学習行為の力を退化させるかもしれません。
潜在的な学習能力の掘り起こしをせずに終わってしまうかもしれません。
(夏に子どもが英検塾へ行きました。教師は板書を全くせず、学生に問題集解説部分を読ませるだけでした。何のための黒板だったのでしょうか?黒板はただの飾り!)
「伝統的な教授法」、教具使用にはそれなりの意味があると思います。
技術の進歩に、教師が理由なく足並みをぴったり合わせていくと、実は授業は教師がやっているのではなく、教具がやっている!なんてことにも‥。
人工知能で代用できるじゃん!と思われたらおしまいですね。
ただ、個人レッスンの場合は、ちょっと事情が違います。
明日は、「個人レッスン」情報を少し書く予定です。
皆さまも、イブ、お楽しみくださいね~。
では、明日またこの「小部屋」でお目にかかるのを楽しみに。
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直前までThe Police の〝Every Breath You Take ″など聞いていました。
私は80年代の洋楽が好きなんですが、
「いつも同じタイプの曲ばっか!今の邦楽は聞かないの?カラオケは行けないタイプだね」と子どもに言われてしまいました‥。
まず、20年前の中国の日本語教育をイントロとして書きます。
いわゆる超一流大学の日本語学科でも、複写機やリソはあっても教師は使えませんでした。
(一度それとなく打診したところ、顰蹙‥でした)
なので、ハンドアウト配布はないものと考え、いつもかなり早めに教室に到着。
授業予定のコンテンツを全て端から端までチョークで板書。
10分前に行くと、学生は15分前に来て待機しています。
申し訳なく思って20分前に行けば、30分前には予習しながら待っています。
ますます申し訳なく思い、40分前に行ったら、なんと!1時間も前から着席していた!
学生はテキストを丸暗記していて、授業は暗誦確認から始まりました。
上級ともなると、質問のレベルが高く、教師もタジタジとなるような質問の矢が!
ものすごい熱意とヤル気の熱気が教室をムンムンと暑くしていました。
国内の日本語学校にあるような絵カードや教具類は全くなく、
参考書、参考テキストなども一切なし。
会話などは教師のオリジナルテキストでした。
現在は、たとえばですが、
CDを音響機器で聞かせ、
ウェブ上で語彙の予習をさせておき、
PPT(パワポ)で文字や絵を見せ語彙練習
タブレットで読解教材を見せ、読解練習
ハンドアウトで会話練習
PPTでまとめ
という流れが可能です。
「学生が先に進んでいるんだから、その先をいかなきゃ!学生に遅れてはダメですよね~」
という考え方もあります。
(遅れてはダメですか?どういう理由で?)
また長~くなってしまいそうなので、明日は、このつ・づ・きを書きます。
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2回に渡って、国内、国外における「直接法」「間接法」について自己体験をまじえてざっくりと書きました。
今回は、外国語の学習者としての視点から見た教授法についてです。
子育てが一段落ついた頃、日本のある中国語学校で中国語を再び学び始めました。
目的は、中国語を聞いて話す機会を極力持ち、レベルアップを図ることでした。
教師は母語話者でしたが、専門は語学教育ではありませんでした。
日本の個人経営の中国語学校で、教育学・教授法の知識や背景を持った教師はまれのようです。
中国人だから中国語でしょ!と思いついて始めた人が多いのかもしれません。
私が数ケ月通った(週1回)学校の教師は、授業の初めから終わりまでずっと日本語で無駄話をしていました。
通訳案内士(中国語)の資格保持者のクラスですから、上級のはずなのですが、彼が中国語を話すときは、唯一、テキストの本文を読むときだけでした。
日本の民間の中国語教師は、もしかすると日本語で話すことが学生へのサービスだと勘違いしているのかもしれません。
上級なのですから、100%中国語の「直接法」でいいはずです。
中国語で話してほしいという要望を伝えると、烈火のごとく怒りだしたのには心底驚きました。
中国では、学生が教師に要望を言うことなど許されないと。
ここは日本なのですが‥、時代錯誤です‥ね。
学生の学ぶ動機づけの高さによるかもしれませんが、目標言語の向上=できる限り目標言語に触れる時間を増やす、という考えを持っている学習者の場合、中級になった時点で「直接法」に切り替えて何ら問題がないと思います。
次は、日本語を教えている側から見た教え方です。
私は、学生から質問を受けた場合、欧米圏の学生には英語で、中国語圏の学生には中国語で訳語を与えます。もちろんそのような希望があった場合ですが。
学生のニーズにはできる限り応えたいと考えています。
教師が学生の母語ができると、便利です。
学生の母語の構造がわかっていれば、学生の誤用の背景がわかる上に、出てくる誤用の推測ができ、事前に誤用が起こりがちな表現・文法に注意喚起ができます。
作文の授業でも、読んで意味がわからない場合に、学生に母語で説明してもらい、学生のレベルに合った適切な訳語を指導することができます。
書いてあることが「わからない」と最後通告をしてしまうのは、学生にちょっと気の毒です。
私がいた欧米圏と中国では、初級クラスの場合、その国の教師が「間接法」で、中級以上は日本語のネイティブが「直接法」で教えていました。
ネイティブが担当する科目は、「会話」「作文」でした。
現在も、現地の知人・友人の話によれば、状況はあまり変わっていないそうです。
いずれにしても、今は「直接法」も「間接法」も対応可能な教師が望まれていると言っていいでしょう。
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私が卒業した構成講座(約30年前)では、2回ほどベテランの教師の授業を拝見しました。
その当時はコミュニカティブなタイプの教授法が全盛期でした。
教師は導入で文型・文法を適切な文脈の中で使用してみせ、
その後全体コーラスによるリピート練習、
一人ずつのパターン・プラクティス練習、
会話練習という流れでした。
流れるような授業で、教師の指示通りに口を開いて練習していると、いつの間にか授業が終わっているという感じでした。
教師は学生の様子から判断して、当該文型項目は〝入った″:「理解、身についた」と言っていました。
ですが、実際は、学生たちが文法項目を理解できたのは、「直接法」による授業が優れていたからではなく、机の下に隠してある対訳付き教科書の説明を見ていたからです。
日本国内の日本語教育はほぼ「直接法」で行われていると言われていますし、養成講座でもそのように教えています。
ただ、これも教育機関に在籍する留学生の国籍次第で事情は異なります。
欧米から来ている留学生が100%という場合、文法項目は英語で説明し、その後日本語のみで練習、中国語圏からの留学生が100%であれば、中国語で説明後、同様の方法を取ることが多いようです。
理由は、そうしたほうが効率的だからです。
現在、テキストに英・中・韓で意味・文法説明が付いているものが増えています。
なので、厳密な意味では、「直接法」と言えるか疑問です。
戦中、台湾で日本語教育を行っていた伊沢修二も、山口喜一郎も「直接法」を標榜していましたが、実際は一部「間接法」を取り入れた「直接法」だったようです。
海外で「間接法」の場合、学習者の日本語の歩みは教師の中国語のレベルの歩幅を越えられないという問題があるかもしれません。
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